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次男の背中 [子育て]

前回の更新から、
すでに1年が経過しています。
あっという間の1年でした。
北海道で高校生活を送っていた次男は、高校3年になってしばらくして、
学校に行けなくなりました。
それまでは、成績もそこそこ優秀で、このまま頑張れば、
学校推薦で、それなりの大学にも入れただろうと思います。
しかし、もともと不安の強い彼は、勉強をどれだけしても、安心できず、
体調を崩して帯状疱疹が出たこともありました。
学校では、すべての教科の先生にしつこいくらいの質問をしていたようです。
それが、ある先生のご機嫌を損ねたのでしょう。
「そんなことくらい、自分で考えろ!
そういわれた彼は、それ以降、学校に行けなくなりました。
正確には、教室に入れなくなったのです。
何とか、保健室登校で頑張り、卒業試験も保健室で受験させてもらい、
いくつかの条件をクリアすることで
ギリギリの3月31日に卒業させてもらうことができました。
卒業判定まで、どんなに悪天候でも、片道30分ほどの距離を歩いて登校したのは、彼の、何とか卒業したい、という思いの強さを示していました。
支えてくださった担任の先生、保健室の先生、学年主任の先生には本当に感謝します。
ただ、
卒業が決まるまで、ボクは本当に生きた心地がしませんでした。
毎朝、ラインで生存確認をするのはもちろん、電話したり、下宿の大家さんに起きてるかどうか(生きているかどうか)、部屋まで見に行ってもらったこともありました。
これ以上、通学は必要がないといわれた2月の初め、ボクは下宿を引き払いに北海道まで行きました。
マイナス10度の極寒の時期でした。
たった3年間の生活でしたが、下宿には、たっぷりの教科書や参考書、マンガもあって、引っ越しに3日間かかりました。
その中の半日を使って、近くの湖に、ワカサギ釣りにも出かけました。
せめてもの思い出作りでした。

今は、予備校で、毎日、どっぷり勉強漬けの毎日です。
次の春か、どうかわかりませんが、
彼が無事に大学に合格できたとき、
お世話になった先生たち、下宿の大家さん家族、
そして、彼のお気に入りだった喫茶店のお母さんにも、
笑顔であいさつに行くことができたらいいなと思います。

小中学生の半分くらいを引きこもりで過ごした彼を、
普通の予備校生になるまでに育ててくれた、
学校や寮の先生をはじめ、あの北の大地の町のみなさんに感謝するばかりです。

京都で診察をしながら、
ボクは、
ずっと心のどこかで、次男のことを考えていたので、
いまだに、
電子カルテの入力ボタンをクリックする瞬間や、
胎児超音波検査で、胎児の顔を映し出しているときなどに、
あの町の風景が脳裏をかすめることがあります。

このフラッシュバックが収まるころには、
次の心配ごとができているかもしれませんが、
その分、次男が少しずつでも成長してくれていると信じて、
笑顔で過ごしたいと思います。

毎朝、自転車で出かける次男の背中を見ながら、
ボロボロになってでも、無事に京都に帰ってきてくれたことを感謝しています。




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共通テーマ:妊娠・出産

30年が経ちました [産婦人科医]

ボクは、
この6月1日で、医師になって、ちょうど30年になります。
(昔は、5月に国家試験の合格があって、6月1日から就職でした。)
今でも覚えています。
5月27日が月曜日で、
その日に集合するように、言われて、
産婦人科の教授室の秘書さんのところに集まったのです。
そしたら、
その年の入局者が、16人くらいいて、
更衣室のロッカーが足りなかったのです。
それで、
その日は解散。
6月3日の月曜まで、また自宅待機でした。
5月27日は、集まった同期の先生方と親睦を兼ねて、
とりあえず、近くのごはん屋さんでお昼を食べて帰りました。
カラオケにも行ったかもしれない。
なんとものんびりした時代でした。
その後の、
死にそうなくらいしんどい、地獄のような(笑)、
研修医生活を、ほとんどイメージできていませんでした。

それからのボクは、
なにを求めて、
なにと闘い、
なにを得てきたのでしょうか?

そして、30年という月日は、
今思うと、あっという間でした。
ただ、
毎日、毎日、新しいことを学んでいて、
一日とて、同じ日はなかったといえます。

一人ひとりの笑顔が、
必ず、誰かを、また笑顔にする。
そう信じてきました。
でも、
何人くらいの人が本当に笑顔になったのでしょうか?

これからも、
一人ひとりの患者さんと向かい合って、
産婦人科医として
がんばっていこうと思います。


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共通テーマ:妊娠・出産

心の支え [産婦人科医]

新型コロナウイルスの影響で、
自粛期間、生活様式の変更、そして、気が緩んでしまったことが原因なのか、
今は、第3波の間真っ只中。
言葉にならないしんどさが続く毎日です。
気が付けば、
もう、あっという間に一年が終わろうとしています。
そんな重苦しい日々の中で、
ボクが産婦人科医として、
日々、患者さんに向かい合い、寄り添い、
生きていくことができるのは、いろんな人たちの支えがあるからです。
このブログを始めたころは、
たった一人で、戦っているかのような思い込みもありました。
若さを言い訳にしてはいけないと思いますが、今思うと、本当に恥ずかしく思います。
そんな中で、この一年は、
大切な、二人の先輩がこの世を去りました。
ひとりは、
ボクが大学院をでて、最初に努めた病院の、もと部長の先生です。
頑固な面もありますが、
とても知性的で、冷静で、やさしい先生でした。
NICUがあり、産婦人科常勤医がたった二人の小さな病院でしたが、
もともと先生が専門であった内分泌の患者さんや、婦人科癌の手術まで
なんでもこなされていました。
ボクが大学院生の時にアルバイトで手伝いを始めたころも、
何度か食事に連れて行ってくれました。
体調を崩されて、退職することになりましたが、
もう一人の常勤の先生も開業することになり、
ほぼ入れ替わりで、ボクがその病院に就職しました。
その後、10年間、ボクはその病院で、どっぷり周産期医療にのめりこむことになったのですが、
研究会や同門会でお会いすると、必ず、やさしく声をかけてくれました。
「忙しそうやね。体だけは、大切にしてね。あの病院は、体に悪いから。」
笑うに笑えない冗談でしたが、
そういった言葉に、先輩からの励ましと愛情を感じました。
あの先生のためにも(当時、一緒に働いていた、小児科の先生だけではなく)、
ボクは、あの病院で、ひとりでも多くの妊婦さんと赤ちゃんを助けないといけない、
そう、気を引き締めたものでした。
5年前に開業したとき、内覧会を開いたのですが、
その時も、
大きな白い胡蝶蘭を、自分で抱えて、お祝いに来てくれました。
すごくうれしかったです。
そして、
開業して2年ほどたった時の、年賀状に、
「先生のクリニックの、よくない噂をまったく聞きません。これはすごいことです。」
と、書き添えられていました。
ボクは、こうやって、ちゃんとボクのことを見てくれていて、
応援してくれている先輩がいることを、
心から感謝し、心が震え立ちました。
この先生がみておられた患者さんが、先生が亡くなった後、
数人、ボクのクリニックに治療を継続してこられています。
担当の先生が、突然退職されたので、治療が継続できずが調子が悪くなった、といいます。
患者さんと話すと、その先生との信頼関係が伝わってきます。
先生こそ、ずっと、ちゃんと、患者さんと向かい合っておられたなと気づかされます。
あの先生なら、どんな声をかけるかな、と思いつつ、
あの先生に負けないくらい、患者さんと向かいあっていかなければと思いました。

そして、
亡くなったもう一人の先生は、大学の先生です。
ボクが、
以前勤めていた病院で、部長になったころです。
その先生は、市内の公的病院の部長をされていて、
患者さんのことで、相談したことがありました。
孤軍奮闘で、毎日、いっぱいいっぱいだったこともあり、
規模の小さい病院では、少し荷が重いと感じた妊娠のケースでした。
そちらの病院で診てもらえませんか、と相談したのですが、
「先生、それ、順番が違うでしょ! それは、丸投げ、っていうもんですよ。そういう心配があるなら、まずは、あれとこれの検査をして、それで、そちらの病院では、管理が困難だから、って、言うもんでしょ! 天下の〇〇病院がそんなことしたらあかんでしょ!」
ぼろぼろに叱られました。

その患者さんを引き受けることはできる。
しかしながら、
ちゃんと、検査をして、患者さんも納得した形で紹介しないと、患者さんも納得しないし、結局、ボクの病院が患者さんから信用を失うことになると諭してくれました。
その後、
その先生は大学に戻り、
ボクも医会の仕事を手伝うことになり、
たくさんの研修会を一緒に運営しました。
うっかりミスだらけのボクの仕事に、いつも、
叱咤激励(叱咤>>激励ですが)で、支えてくれました。
50歳を過ぎて、自分のことを本当に心を込めて叱ってくれる先輩は貴重です。
数年前から体調を崩されて、医会にはほとんど顔を出さなくなりましたが、
亡くなる直前の、先生が学会長をされた学会は、かつてないほどの盛会でした。
それでも、
ボクに、あれとこれを手伝ってほしいから、頼むな、って自分でクリニックまで訪ねてこられました。
 「もちろんですよ。お手伝いは、それだけでいいんですか? なんでもいうて下さい。」
そして、
この春、ボクは、専門医制度の書類を整理する担当だったので、
先生から書類の記載で質問があると、直接、電話がありました。
「病気してて休んでた時期があるんやけど、更新できるかな?」
病気をされていたとしても、研修会の参加や論文、単位数は問題なかったので、
問題ありませんと伝えました。
でもそれが、先生との最後の会話でした。

11月になって、指導医更新の審査結果が中央から届いたとき、
先生のお名前はあったものの、その時はすでに、亡くなっていました。
 「ボクにとっては、その生き様そのものが、ボクの指導医かもな。」
初めて叱られた時を思い出しました。

令和2年という、
多分、みんなの心に残る、歴史的な一年であったと思いますが、
ボクにとっては、
大切な、敬愛する二人の先輩をなくした年でもあります。

一年の締めくくりで、
今年初めての更新でもあるのですが、
亡くなった、この二人の先生が、ボクにかけてくださった、
愛情のある言葉や思い出を、心の支えにして、
また、ボクは、産婦人科医として、頑張っていきたいです。

すべての、子供たちに、
素敵なサンタクロースのプレゼントが届き、
その笑顔で、
すべての大人たちが幸せな気持ちになりますように!

メリークリスマス!





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HPVワクチン、ボクも受けました [産婦人科医]

子宮頸がんで亡くなる人は、
今の日本でも、毎年おそよ3000人ほどです。

ボクも、病院勤めをしているとき、多くの患者さんを治療しました。
比較的、若い年齢でなる方が多いので、
今も、うちのクリニックで術後の定期チェックを、更年期症状の治療と一緒にしている方もおられます。
そして、残念なことに、治療の甲斐なく、
命を落としていった患者さんもいました。

がんの末期は、担当医として、すごくつらいものがありますが、
子宮頸がんの患者さんの場合は、
肺、肝臓、腎臓など、生活臓器が問題ない方も多く、
意識が比較的はっきりしている一方で、
骨盤の腫瘍がどんどん大きくなり、出血が止まらず、
痛みと貧血がつづくのです。
(この表現で、気分を悪くされた方がいらっしゃれば、お許しください。)
そして、
このつらい病気には、
愛する人との性行為で感染した、HPVが原因だという、
切ない思いが、いつまでも残るのです。

 「ワクチンを、打っていれば・・。」

子宮頸がんワクチン(HPVワクチン)の接種率は、
わが国では、いまだ低いままです。
ワクチン接種をした際の副反応があり、それをきっかけに、
HPVワクチン接種の、積極的な推奨することを控える、という行政の動きがあったからです。
いまも様々な議論はされていますが、
ようやく、HPVワクチン自身の副反応ではないことが受け入れられるようになり、
少しずつですが、HPVワクチン接種を受ける方が増えてきています。
この数年間の行政の遅れとでもいうのでしょうか、
世界的には、HPV9価ワクチンが一般的なのですが、日本ではまだ認可される動きもなく、4価ワクチンのままです。
9価ワクチンで90%以上の子宮頸がんが予防されるのに対して、
現在の4価ワクチン(実際は子宮頸がんに対しては2価)は、66%程度の予防ということになります。
ただ、命にかかわる状態への進行を予防する目的において、
4価のワクチンでも十分な効果があると聞いています。
3回のワクチン接種を受けた全員が抗体を持てるかどうかわかりませんが、
少なくとも、皆が等しく接種を受けることが、ワクチンによる感染症予防の考え方です。
「自分だけが受けた」は、もしかしたらあまり関係ないのかもしれません。
風疹のワクチンの場合、何度も受けたにもかかわらず、抗体がつかない人はたくさんいるわけです。
皆が受けることで、抗体がつかない体質の人にとっても、安心な集団ができると思っています。

もちろん、年1回の子宮頸がん検診を受けることが、何よりも早期発見、早期治療につながります。
大学病院などでは、HPVに対する治療薬の治験も始まっています。
新しい治療ができれば、ワクチン接種の機会を逃した人でも、より安心して治療受けることができるようになるでしょう。

うちのクリニックでも、毎日のように、
子宮頸がん検診で異常が指摘された患者さんの精密検査を行っています。
実際に、ワクチンを受けた方でも、異常を指摘されることがあります。
しかしながら、たいていは、軽度異形成どまりで、それ以上進行していることはありません。
ボクの実感として、HPVワクチンは十分な効果があるようです。

 「ワクチン、受けていてよかったね。」
「はい。受けるとき、怖かったですけど。」

先日、
自分でも、HPVワクチンを受けることにしました。
いつも、患者さんにしているように、
細めの針で、ゆっくり、時間をかけて筋肉注射してもらいました。
まったく、痛みはありませんでした。

50代後半になって、
HPVワクチンを受けるおじさんは、世界的にも珍しいかもしれませんが、
ワクチンを受ける、若い患者さんたちの気持ちが少しでも理解出ればと思います。

そして、
 「ボクも、受けたよ。」
という言葉で、一人でも安心して受ける方が増えたら、と願っています。

今年も、あっという間の一年でしたが、
2月、9月と2回転倒し、右肩関節の脱臼やら骨盤の打撲やら、
半分くらいは、いつも、どこが痛かったです。

来年は、ケガをしない一年を送りたいです。

少し早いですが、

すべての子供たちと、
その笑顔を見守り、その笑顔で、勇気づけられる、すべての大人たちに、
メリークリスマス!!


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覚えてくれてなくてよかった [産婦人科医]

地域周産期センターの病院で勤務していたころ、
ちょうど、このブログを始めたころの患者さんの話です。

その方は、
切迫早産で、数週間入院して、治療をしなければいけませんでした。
上に、女の子と、男の子がいて、
3回目の出産でした。

そして、ちょうど、春休みから新学期のシーズンでした。

子宮収縮抑制剤を点滴で投与しながら、
安静入院をしていましたが、
一番上の女の子が、
卒園して、小学校に入学する時期に重なってしまいました。
幼稚園(か保育園)の卒園式は、なんとかなったように覚えているのですが、
徐々に症状が強くなり、点滴治療で、外出すらできない状況になっていました。

「着ていく服の準備もあるし、少し前に外泊したんですが。」
 「お腹がけっこう張ってるので、厳しいかな?」

入学式の準備は、おばあちゃんがしてくれることになりました。
結局、子宮収縮が安定せず、
入学式当日の外出、外泊は果たせませんでした。

入学式の日、お昼過ぎになって、
子供たちが病棟に遊びに来てくれました。
いつも、入院中のお母さんの面会で遊びに来ていましたが、
この日は、入学式のお洋服です。
スカートで、おしゃれに髪飾りもつけてもらっています。
弟君もかっこいいです。

 「入学、おめでとう!」
「ありがとう。」
照れくさそうに、答えてくれました。
 「お母さん、入学式に行けなくて、ごめんな。」

毎年、入学式シーズンになると、この申し訳ない気持ちになったエピソード思い出していました。

自分の長男の入学式の時、
緊張と希望の入り混じった、真一文字にきりっと閉じた口元を、
感謝の気持ちをもって眺めていました。
よくここまで大きくなってくれたと、
自然と涙が出てきました。
あの瞬間を、親として立ち会わせてあげたいと思ったからです。

そして、あれから10年以上が経過して、
この時の患者さんと、お姉ちゃんが二人でクリニックに受診されました。
診察を終えて、
ひと段落したときに、
 「入学式の時に、お母さんを外出させてあげなくてごめんね。」
と、ひとこと付け加えました。

ずっと、申し訳ないと思っていたからです。

「えー、そうでしたっけ? 覚えてませんよ~。」
 「そうなの?」
「私も、まったく忘れてました。」

お姉ちゃんばかりか、
お母さんまで言い出す始末。

ボクが守った、一番下の赤ちゃんは、もうそろそろ中学生です。
子供が三人いる、この方の「子供の入学式」は、その後も何度かあったわけで、
ずっと、ずっと申し訳なく思っていたのは
ボクだけだったのかもしれません。

すべての患者さんが、都合の悪いことを全部忘れてくれているとは思いませんが、
こうやって、大人になって、ボクのクリニックに来てくれることで、
あの「申し訳なさ」をすこしマシにすることができました。


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父の手 [産婦人科医]

ボクの父は、産婦人科の開業医です。
ボクが生まれる1年前に開業して、ずっとお産を中心にたった一人で頑張ってきました。
もちろん、母の協力がなければできなかったと思いますが。
数年前、開院50周年を機に、兄に院長のポストを譲り、現在は悠々自適の生活です。
しばらくは週1回外来診療も担当していましたが、それもやめています。
とはいっても、医院のすく隣に暮らしており、
帝王切開や吸引分娩などがあれば、オブザーバー的に立ち合い、
兄をうまくサポートしています。
その父は、今年、91歳です。

春先から、不整脈が出始めていました。
頭ははっきりしているのに、ずっと胸がもやもやして気持ち悪い、
死んだ方がましや。
などというので、休みの日には何度も顔を見に実家に戻っていました。
結局、心不全兆候も出始めたので、本人の希望も強く、
実家にほど近い病院で、アブレーション手術を受けることになりました。
手術は、ボクの休診日でもあったので、朝からずっと付き添っていました。
母や兄たちは、それぞれやることがあるそうで、一番ヒマなのがボクだったというわけです。

緊急手術がその前に入ったせいで、少し開始がずれ込んだのですが、
いよいよ手術に向かうときになり、
やっと手術が受けれると喜ぶ一方で、一瞬心細そうな表情もみせたので、
兄たちと一緒に、父の手を握って、励ましていました。

久しぶりに握った父の手は、
大きくて、エネルギーにあふれていました。
この手で、50年、いや、60年、
たくさんのお産に立ち会い、赤ちゃんを取り上げていたのです。
助産師は雇っていなかった父は、実際に自分の手で、取り上げていました。

 「父が生きている間に(大袈裟ですが)、父の手を握る機会があってよかったな。」
そう思いました。

このエネルギーって、
親子だからなのだろうか?
父の手が特別なんだろうか?
産婦人科医だからなのだろうか?

いろんなことを思いながら、
血管造影室に入っていく父を見送りました。

手術は、5時間ほどかかりましたが、無事終わりました。
帰ってきた父は、麻酔の影響で少しぼーっとしていましたが、
受け答えははっきりしています。

 「よかった。」

アブレーションを受けるべきか悩んでいるときに、背中を押したのが自分だったので、もしなんかあったら、母や兄たちに申し訳ないと思っていたのです。
手術が終わってから、父の回復は思いのほか順調で、
浮腫んでいた顔や足も、徐々に回復してきました。

「看護婦さんの何人もが、わしにお産で子供をとりあげてもらったって、いいにいきてくてれん。」
「体拭いてくれる時も、名前じゃなくて、『先生』って呼んでくれるねん。」

働いている看護師さんの何人もが、ボクの実家の産婦人科医院でお産をしていたのです。

 「大事にしてもらって、よかったね。」
本当に、父は幸せそうでした。

 「でも、手術、怖かった?」
と、聞いてみました。

「べつに。」

 「そうなんや。」

「手術の時、おまえらが、順番に、手握ってくれてたやろ?」

 「うん。」

「その時に、お前らの手が、あまりにもすごかったから、びっくりしててん。」

 「どういうこと?」

「『うわぁー!これが、たくさんの人の命を救ってる、医者の手なんや。すごいなぁ。』 
って思ったわ。なんかわからないけど、すごかったわ。」

父は、これから自分が、もしかしたら命に係わる状態になるかもしれないという手術の直前に、自分の息子たちの手の感触に、医者としてのエネルギーを感じたんだそうです。

ボクが、手術の直前に感じた父の手のエネルギーは、
同じように、ボクらから父へと伝わったようです。

心から尊敬する、産婦人科医として生きてきた父に、
もしかしたら、少しでも近づくことができているのかな。
そう思えて、
少しうれしくなりました。

実は、
ボクは、今までも、今でも、
お産や手術の時、
必ず、患者さんと握手をしたり、手を握りながら、
無事に終わったことを報告します。

 「お疲れ様。無事終わりましたよ。」
 「よく頑張りましたね。」

手術の前にすることはあまりなかったのですが、
これからは、
緊張が強い患者さんには、
握手をした方がいいのかなと思いました。

まだまだ、目指す目標は高いです。
これからも、修業は続くようです。


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次男が帰ってきた [子育て]

長い長い不登校を乗り越え、
この3月、次男は無事に中学を卒業しました。
卒業式では、
一人ひとり、校長先生から卒業証書を手渡していただくのですが、
合計、1年ちょっとしか行ってないので申し訳ない気持ちとありがたい気持ちが入り混じった、複雑な気持ちで眺めていました。
式の最後に卒業生が、父兄に向かって合唱を聞かせてくれたのですが、
次男は、自分で志願した指揮者の大役を見事に果たしました。
卒業生の歌声は、思春期独特の若々しい音色で、
畳みかけるように、流れるように、美しかったです。
もちろん、この卒業生の中には、
ボクが出産時に担当した子供たちが、何人もいて、その子たちの歌声もあるかと思うと、
自然と涙がこぼれてきました。
(15年前も、お産の立ち合い、よく頑張ったな、と。)
そんな、ボクにとって宝物のような歌声を、
次男が、指揮者として一つにまとめてくれているのです。
親のボクだから許して欲しいのですが、
この卒業式で、次男が、申し訳ないけど、一番、カッコよかったと思いました。

そんな次男が、
自ら選んだ高校は、
北海道の男子校でした。
中学3年になって、いくつもの高校の入試説明会に参加しましたが、
彼が行きたいという高校がなかなか見つからず、
偏差値で選んでも、その高校の大学合格者数で選んでも、
食堂や自習室といった充実した設備でも、
次男が思い描くイメージと少しずつ違い、ぴったりくる高校が見つかりませんでした。
なんとなく、
ボクのクリニックからほど近い、
仏教系の男子校が、さしあたり第一志望となりました。

いろいろ情報を集める中で、
北海道の高校が目にとまりました。
ボクの高校の恩師に相談したときに話題に上がったことがあったからです。
名の通ったミッションスクールです。

 「とりあえず、説明だけでも聞いてみたら?」

次男は模試があったので、
奥さんがスケジュールを調整して、ひとりで参加しました。
「ここっ! すごくいいっ!」
説明会から帰ってきた奥さんが、大喜びでした。

「ほんまかぁ?」
と半信半疑の次男でしたが、
次の週の11月の連休を使って、
奥さんと二人で、実際に北海道まで見学に行きました。
(ちなみに、説明会は大阪でした。)
副校長先生が時間をとって面接もしてくださり、
校舎や寮のなかも丁寧に見学させてもらいました。

「お父さん、北海道、行かせてくれる?」
 「もちろん!」
「寂しくない?大丈夫?」
 「なんとか、頑張るわ。」

目標が見つかった次男のまっしぐらな姿は、
先だってのブログにも書いた通りでした。
無事に志望校に合格して、
結局、勉強を始めてから、たった11か月で合格してしまいました。

入学式の日は、ボクもクリニックを休診にして参加しました。
入学式の当日、雪が降っていて、しかも、前日には寮に入ってしまっていたので、
校門で家族写真は撮れませんでした。
すでに、前に向かって歩き始めているネクタイ姿の次男をみて、
 「しんどくなったら、また、休んでいいからな。」
心の中で思いながら、固い握手をして、北海道を後にしました。

京都に帰り、次の日から仕事をしていました。
昼の2時には電話があり、
「しんどい。帰りたい。」
と。
 「早っ!」
笑うしかありません。
数日に一回のペースで、夜になると電話がありました。
最初のうちは、足りないものを送ってほしい、と。
1週間して、半泣きの声で、
「自分がなぜ生まれてきて、どうして生きていかなければならないのかがわからくなった。」
と言い出す始末。
話し言葉に、標準語の占める割合が増えています。
 「仕方がない。」
次の週には、入ろうとしておるクラブの話、
そこにどうやら自分の居場所を見つけ始めた気配。
 「よし、よし。」
そして、次には、
「あと、1週間で帰れる。お鍋食べたいねん。」
 「オッケー!」

そして、昨日、次男は自分で飛行機に乗って帰ってきました。
寮での話、友人や先輩の話、先生の話、いろんなことを
空港まで迎えに行った奥さんに、
家に着くまで機関銃のように話しまくったそうです。
家で待っていたボクには、
2回も同じことを話すのはめんどくさいと話してくれませんでしたが、
「連休中に、服買いに行くの、付き合ってな。」
と、京都での休暇を有意義に過ごしたいようです。

たった4週間しか経っていないのに、
ずいぶん成長したように感じます。
今、彼を支えてくれている、先生や先輩、そして友達に感謝するばかりです。

 「健康で、笑顔でいてくれるだけで、十分。」

彼が、不登校であった長い長い時間、
そう自分に言い聞かせてきました。
ボクが笑顔でないと、彼が笑顔でいられなくなるからと、
自分がどうすれば、笑顔でいられるか、
自分への問いかけの日々でもありました。

子育ての難しさは、
その時点、その時点で、先の見えないことです。
産声を聞くまでは、不安だらけのお産のようです。
今更ながら、そう感じます。

令和という、新しい時代にかわり、
この連休がおわり、
彼をまた、北海道に向けて、送りだすとき、
きっと、また、
希望に満ちた、美しい笑顔を見せてくれるのでしょう。

感謝です。

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死にもの狂いでした [子育て]

子育てなんて、
たしかに、ある意味、「死にもの狂い」です。
子供が小さいときは、
なりふり構わず、授乳したり、おむつ交換したり、
いつ寝て、いつ起きてるか、わからないくらい。
でも、そんな中にも、子供が少しずつでも育ってくれて、
輝くような笑顔を見せてくれるから、
それをご褒美に頑張れるんです。

先日、ボクのクリニックに、
昔、お産を担当した方が受診されました。
順番が来て、
新患さんが記入する、問診用紙が机の上に置かれました。
その名前を見た瞬間、
 「あ!」
見覚えのある名前でした。
 「この方、ボクの患者さんだね!」
「先生がお産を担当されたそうです。」
問診を聞いた助産師さんが教えてくれました。
問診用紙を見ると、お産は「帝王切開」に〇がついていました。
 「そうやったわ。たしかに、帝王切開したわ。」

名前を呼ばれて診察室に入ってきた、その患者さんは、
ボクの顔をみて、にっこり。
以前と、全然変わらない、落ち着いたやさしい笑顔でした。
実に、15年ぶりの再会でした。

「先生、おひさしぶりです。」
 「ほんと、久しぶりですね。お子さんは元気にされていますか?」
「はい、元気です。もう高校生です。」
 「そうですか、よかったー。」

短い会話を交わしたのち、今日、本来受診した理由を聞いて、診察や検査をしました。
診察が終わって、
 「ボク、少しずつ、思い出してるんですが、妊娠と出産、ほんと大変でしたよね?」
「はい、死にもの狂いの15年間でした。」

着替えながら、カーテン越しではありましたが、
それでも、その方の、自信に満ちた笑顔を感じ取ることができました。

 「お義父さん、お元気ですか?」
と、

次にこう声をかけようと思ったのですが、
ボクはやめました。
というより、できませんでした。
そのとき、ボクは、
涙が流れてくるのを抑えることができず、
言葉にならなかったのです。

ネットでもコンプライアンスが厳しい昨今ですが、
もう15年も前なので、
その理由を、このブログに書くことを許して欲しいと思います。

たしか、
妊娠中期に入ったばかりのころでした。
妊婦健診で、いつもとは違う患者さんの雰囲気で、心配になりました。

 「どうしたんですか?」
「実は、主人が急に亡くなったんです。」
 「えーっ!」

ご主人さんが亡くなった理由はここで書くことはできませんが、
この方は、とにかく、今の自分の妊娠を、
無事に終えようとする、強い意志を感じました。

幸いにも、妊娠経過は順調で、無事に満期を迎えることができました。

そして、陣痛が始まり、入院になりました。
「よろしくお願いします。」
 「頑張りましょう!」
入院に付き添っていたのは、お義父さんでした。
背の高い、上品な紳士です。
少なからず、緊張されていました。
 「よろしくお願いします。」

ボクは、どんなときも、家族の希望があれば、
立ち合い出産を認めていました。
しかしながら、義父と産婦さんの二人だけの立ち合い出産は、
この時が、最初で最後でした。
陣痛が進む連れて、痛そうになっているのですが、
やはり、
ご主人やお母さんではないので、腰をさすってあげるとかはされずに、
ただ、陣痛室の椅子に腰かけて、黙って付き添っておられました。

夜中になり、分娩がなかなか進行しませんでした。
記憶があいまいなのですが、
たしか、回旋異常かなにかだったと思います。
破水していたのでしょうか?
時間をかければ、もしかしたら、自然分娩できたかもしれません。

十分時間をかけて陣痛を頑張った、その方と顔を見合わせて、
ほぼ、同時に、「帝王切開」という言葉が出たように覚えています。
その言葉で、深くうなづかれました。

陣痛ばかりではなく、
妊娠期間からずっと、この方は頑張ってこられました。
なによりも無事に赤ちゃんを産まないといけなかったのです。
帝王切開がすべてを解決するとは思いません。
でも、その時のボクは、
 「もう十分頑張りましたよね。」
という気持ちでした。

内診の時は、陣痛室の外へ、席を外されていたお義父さんに、
分娩の経過の問題、帝王切開が選択肢になること、
帝王切開の内容や危険性など、ご家族として説明をしました。
ずっと、冷静に、聞いておられ、
最後に、ひとこと、
「それで、お願いします。」
とだけおっしゃいました。
帝王切開が終わり、
無事に、元気に生まれた赤ちゃんと面会されているときも、
終始、無言でした。

その時のボクは、無事に赤ちゃんを取り上げないといけない、という、
産科医の使命があったので、ホッとした思いが一番だったかもしれません。
しかしながら、
15年の時が経った今、
この時の、お義父さんのお気持ちがどうだったかを、
考えると、胸が詰まります。

ボクには娘はいませんが、息子がいます。
自分も年齢を重ねてきたので、
今になってこそ、
理解できる気持ちもあります。

 「お義父さん、お元気ですか?」
なんて、気楽に尋ねることなんかできませんでした。
きっと、
お義父さんは、
息子を亡くした悲しみと、
お嫁さんの死にもの狂いで頑張る姿や孫の元気に育つ姿を見て、
安堵する気持ちとが入り混じり、
ボクがどんな言葉を並べ立てても陳腐になってしまうほど、
苦しい思いをされたんじゃないかと思いました。

たくさんのお産に立ち会い、
患者さんやご家族に寄り添い、向き合ってきたつもりでしたが、
15年経たないと理解できなかった、
ご家族の気持ちがありました。

せめてもの、ボクの救いは、
この方が再会したときに、
「死にもの狂いでした。」と過去形で語ってくれたことです。

これからも、産婦人科医として、この方にできることはまだまだたくさん残っています。
そして、ニコニコと、ずっと笑顔でいてほしいと思います。


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2年ぶりのサンタクロース [子育て]

メリークリスマス!

独立して丸3年が経ちました。
前ほど、いろんなことに憤りを感じることもなく、
ただ、ニコニコと毎日が過ぎていくばかりです。

昨年、「クリスマスの賞味期限が過ぎてしまった」という表現をした、次男は、
高校受験まっしぐらです。

朝、目覚まし時計で時間通りに起きてくると、
リビングのこたつに座り、
いきなり勉強を始めます。
ほいほい、と、朝ご飯を並べると、
問題集や参考書から目をそらすことなく食べ始め、
食べながら、勉強しています。

勉強しつつ、食べつつ、朝の情報番組に、なんでやねん、とツッコミを入れています。
 「どうかしてるぜ!」

ボク自身、
ご飯を食べながら勉強したことがないので、彼の勉強の本気度は、
おそらくボクの想像を超えているんだと思います。

そんな次男が、
「なあなあ、お父さん、まだサンタ間に合うか?」
というのです。
 「余裕やろ。」
それは、まだ12月の半ばのことでした。
「去年、お願いしてないから、ちょっと高いもんでもいいかな?」
 「ええんちゃう?」
「ウォークマン欲しいねん。音楽、聴きたいわ~。」」
 「頼んでみたら?」
もうすぐ高校生になるというのに、サンタの存在を信じていることも含め、
すべてが規格外の人間じゃないかと思えるようになっています。

クリスマスの朝、
冬休みだというのに、いつもの時間に起きてきて、
いつものように、リビングで朝ご飯待ちの時間で勉強しています。
 「おはよう。メリークリスマス!」
「メリクリ~」
こちらに顔向けることもなく、勉強しています。
 「サンタさん、どうやった?」
「来てたみたい。寝相が悪くて、ベッドの下に落ちてたけどな~。」
 「で?」
「で?って、それだけやん。」
勉強しながら、会話がそれ以上続きません。

あんまりうれしくないのかなと思い、
心配していたら、

「受験終わってから、いっぱい音楽入れるから、手伝ってな。」

ボクが思っている以上に、次男は大人になっていたんだなと思いました。
いつまでも、こういうふうでいて欲しい。
そう思うのは、もはや贅沢でしょうか?

今年も、すべての子供たちと大人たちに、
サンタクロースの夢と希望が届けられますように!




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そこまでやさしくなれるんですね [妊娠]

開業して3年目、最近、少しずつ忙しくなってきました。
患者さんの待ち時間はなるべく短くしたいと心がけていますが、
自分が大切だと思うことは、やはり手を抜きたくありません。
妊婦健診の患者さんは、超音波検査や内診、そして、生活指導があり、一人あたりの診察時間がどうしても長くなりがちです。
うちのクリニックは分娩を取り扱っていないので、
周辺の施設と連携したうえで妊婦健診をおこなっていますが、
診察が終わっても、それぞれの妊婦さんに不安や心配事がないか尋ねます。
そして、スタッフも助産師さんがいるときは、
ぼくが健診したあとにも助産師さんによる相談や指導も行っています。

そんな中の、一人の妊婦さんのことです。

その方は、もともと妊娠を希望してうちに紹介されてきた方です。
その方のホームドクターが、ボクの高校の同級生で、大学は1年先輩の内科医で、
結婚してしばらく経っても妊娠しないと、ボクに紹介してくれたのです。
何かと不安が強い方でしたが、いくつかの検査で不妊の原因も判明して、
その後、なんとか無事に妊娠に至りました。

妊娠しても、やはり不安は強く、診察時間は長くなります。

その方が出産する施設でも健診を受けているのですが、
ときどきうちのクリニックでも健診を受けに来られます。
忙しい大きな病院の外来診察では、限られた時間の中で、
この方の不安はなかなか解決できません。
ただ、妊娠経過にすこし心配があったので
出産する病院での継続的な健診を受けるよう、紹介しました。

そして先日、久しぶりに予約を取って健診に来られました。
妊娠の経過が落ち着いていることもあり、
「心配事」の相談があるそうです。
妊婦健診や詳しい超音波検査だけでなく、
ボクと話すことで、いろいろな不安が少しずつでも解決します。
診察室に入ってこられたとき、
長かった髪の毛をバッサリと切り、ショートカットになっていました。
女性が髪の毛を切るときは失恋と、昔から相場が決まっているもんですが、
妊娠や出産をきっかけに髪を切る方も少なくありません。

うちのスタッフが、「髪の毛、切ったんですね?」と声掛けをすると、
「はい、ヘアドネーションしました・・・。」

 「??」

最初、恥ずかしながら、何のことかわからなかったのですが、
すぐにスマホで検索して、納得しました。
切った髪の毛をウィッグにして、化学療法で抜けてしまった子供たちなどに提供するのです。

「どうせ切るなら、なんかの役に立ちたいと思ったので・・・。」 
 「なるほど。いいことですね。」


「なんか、夜になると子宮の左だけが突っ張る感じあるんですが、胎盤とか大丈夫ですか?」
「病院の健診は診察時間が短くて、聞きたいことが聞けないんですが、その病院で健診を続けてて大丈夫ですか?」
「病院の先生に、あまり動き回らないように言われたんですが、どこまでならいいんですか?」
「陣痛が来たらどうしたらいいんですか?」

妊娠は、不安だらけです。
妊娠のしんどさを、経験した人ならわかってもらえると思いますが、たぶんその8割くらいが「不安」です。
「案ずるより産むがやすし」という言葉がありますが、
やってみたら大したことなかった、という意味ではなくて、本当は案ずることが一番しんどかった、という意味ではないかとも思います。

この方の、案じてばかりの妊娠期間は、
自分やおなかの赤ちゃんのことばかりに収まらず、
ついに、病気と闘っている子供たちのことにまで及んでいたのです。
いいお産をしなくっちゃ、とか、
元気な赤ちゃんと産まなくちゃ、
という責任感を通り越しているのです。

 「そこまで、やさしくなれるんですね。」

素直にそう思いました。

 「大丈夫、絶対、いいお産ができますよ。」

だって、よその子供たちのことまで考えることができるんですから、
どんな痛みがあっても、あなたの心配を超えることはないでしょう。




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